貧乏と時間とブラック企業

 今さらながらこんなまとめを読んだ。

底辺から這い上がって語る貧乏 都会とカップラーメン
http://togetter.com/li/304874

 もう身につまされることばかりで。読みながら俺が「あるある!!あるある!!」って状態で。
 「貧乏人はパチンコをするな!」とか「一日100円でも生活できる!」とか「生活保護は甘え!!」みたいな論調には凄く違和感があって、自分でも何故なんだろうって思ってたのですが、ここに答えのヒントがあった気がします。


 ある程度まで貧乏のレベルが進むと、自分の中で切り売りできるのが「時間」しかなくなってくるんですよ。
「貧乏ではない」というのはこれはお金の多寡によらないんです。時間を切り売りしなくてもいい余裕のある状況。「追われることのない状況」にいる人っていうのは金銭的に持っているのが少なくても貧乏ではない。でもだいたい貧困ってのは「追われる状況」とセットにあるんですよ。借金だったり、精神的な問題だったり、人間関係的な問題で追われている状況もある。就職口を探して終わってしまう一日だってある。一日のほとんどを追われている何かに対しての処理で終わってしまう状況、これが貧乏の入口です。


 でもそういう状況にある人が余裕を持つためにはどうしたらいいかっていうと、一発逆転しかないんですよ。宝くじみたいな。精神論で解決できるものなんてない。そんな時間がないから。短時間でストレスは解消したいし、短時間で追われている何か以外のものは片付けたい。飯は短時間でいいし、女は風俗で済ますし、小さな一発逆転を狙ってパチンコで散財したりする。


 まあ、そんな行動は基本的に世間的には愚かな行動ではあってわかってもらえるものではないのだが、貧乏というもののある一線を越えると、もはや病に近いレベルで心を蝕んでくるもので、これは上から目線の精神論では治療できない問題になってくる。


 この問題はブラック企業に人はなぜ就職するのかとかそういう問題ともリンクしてくるし、そういう企業が「強制的な精神論」で従業員を飴と鞭で鼓舞してこき使うのには、従業員を強制的に「貧乏人」に仕立て上げるのがちょうどいいというぞっとするような現実があるわけで。


 ひさびさのエントリがこんなんですいません。