架空の民衆

さて。紆余曲折あり、ITの世界にまた足を突っ込むことになっています。まさかまた赤坂に来ることになるとは思わなかった。

昔通っていた店もだいぶなくなってしまった。赤坂ラーメンとかもう無くなってしまったのな。接待で使った店も空き家になったり、安価なテイクアウトで凌いだりしようとしている。どこかしら乾いた諦念のようなものが暖簾や外装に見え隠れする。店には頑張ってほしいとは思いながらも、やはり積極的に外で飯を食うことに何となくの抵抗感があり、足早に通り過ぎる。この1年間で生まれた心の枷はなかなか取れない。

久々に昔にも付き合いのあった大きな会社の会議に参加した。知識をひけらかす新人、概念を振り回す中間管理職、原則論で存在感を出そうとする上司。結論の出ない会議。最終的な話はいつも「人が集まれば何でもいい」「数字が出せれば何でもいい」なんだけど、この言葉をいきなり言わないようにするためにブレストをやったり勉強会をしてみたり定例会をやったりするんだよね、色々思い出してきたよ。会議のための会議が多いのはオンラインでもオフラインでも変わらない。

昔この手の仕事をしながらマーケとかに関わっていたときによく思っていたのが、「確実な顧客」と「架空の民衆」の違いに関してだった。

例えばとあるサービス企画があるとして。これを絶対に利用したいと思ってるのが「確実な顧客」。そして会議でよく語られるのは「一般層を顧客にするためにはどうしたら良いか」なのだけど、ここで語られる「一般層」が会議やブレストを経て「架空の民衆」に化けていくのをあちらこちらで見た。雑な「一般層」にペルソナを当てはめようとしたりして定型化しようとしたものをこねくり回して、会議で上長に理解されるためにさらに定型化した結果、見たことも聞いた事もない「架空の民衆」ができあがる。

いろんな組織でいろんな会議があり、あらゆる場所で架空の民衆が生まれていく。でも不思議なのはこの「架空の民衆」が複数の会社や組織で、概念として共有しやすかったりするのだ。個人的には「数字的なエビデンスを求めるため、既に数字として情報に上がっているものに偏りやすくなる」「会議で上長に理解されるために簡略化する」「異なる社会風土に共有しやすくするために、それなりのストーリー性が出来上がっている」のが原因なのではと思ったりしている。

当然会議では「これはきちんとエビデンスに沿ったマーケティングです」という話になるが、マーケティングにもエコーチャンバーが存在するのだ。企業や組織同士が話し合う「民衆」の話がリアルの民衆とかけ離れていくのは、それが原因なのだろう。

この「組織」には「国」も含まれるとは最近よく思う。同床異夢というより、単純に異夢を見せてるし見せられてるし、そういう話は組織の中では通じないからいつまでも是正はされない。難しい話ですよね、と。

政治家は「実際の民衆」と「架空の民衆」をうまく使い分けていると思うよ。あとYoutuber。そしてその使い分けのカラクリみたいなのはなるべく知られないようにしてるんじゃないかな。わからんけど。