暴走するストーリー、リアルとフェイク、崩壊する組織

さて。たびたびすいません。AKB峯岸の件。「なぜ彼女はこのようなことをしたのか」ということを考えるとちょっと考え込んでしまう。

AKBオフィシャルでの説明は下記のようになっている。

https://plus.google.com/103388469578205010447/posts/UZLDVYDXo98
峯岸からファンの皆様へ直接お詫びしたいという申し出があり、急遽配信の準備をしていたのですが、現場から報告が入り、峯岸本人からの「坊主頭での謝罪」を行いたいという強い意思と、そこに込められたAKB48に対する想いを感じたため予定通り配信することを決定しました。

要するに組織の為に尽くしている姿を見てほしかったのだ。落ち度に対して忠誠心をアピールしたかったと言っても良い。
彼女が考えたけじめの取り方(もしくはその組織が彼女にそうさせたけじめの在り方)は珍しいものではない。ヤクザの指詰めといっしょなんて意見もあったが、普通の会社でも今でもあるような話だ。「頭丸めて出直してきます」。極めて日本的な家族型組織のけじめの在り方だよね。個人的には「まあそういうこともあるよね」って思う。でもその懲罰って決して外向きなものではなくって、「組織内での見せしめ」的要素の方が強くって。


AKBはメンバーもファンも大きくなりすぎてた。その中でどうするかっていう一つの答えが、「ファンもメンバーもリアルとフェイクがあいまいなストーリーに放り込み、そのストーリーをベースとして統制を取る」ことだったんだろうな。総選挙もじゃんけんもそのリアルとフェイクが混然とした空間の中でこそ価値を生む。全員が役者で観客であるこの仕組みは珍しいものではない。居酒屋の店員教育とか、営業系の会社なんかだと良くあるやりかただ。暴走族なんかもそういう部分あるよね。一番理解しやすいモデルは「学校」だ。その学校内のルールが絶対であり、それ次第で中の生徒のメンタルも将来も変わる。

しかしこのやり方は問題が一つある。「内部のストーリーがエスカレートして過剰な競争原理と組み合わせると、リアルとの軋轢を生みやすい」ことだ。例えば居酒屋。過労死を生む仕組みは「強制」だけではない。店長や社員という存在を「キャラ立ち」させることによって、他の店舗などとの競争を生み、強制などというめんどくさいものをせずとも勝手に盛り上がってエスカレートして勝手にサービス残業をする仕組みこそが過労死を生む遠因となる。落ちこぼれたら不幸、乗りきったらさらにはを要求する。これは「店というステージに強制的に役をつけて上げて、競争社会に放り込む」というパッと見問題のなさそうなシステム。少なくとも会社側は何一つ痛くない。でもこれは競争が暴走につながり死に至ることもあるのだ。

AKBは仮にそこまで行ってないとしても、暴走の結果、リアルとの距離を大幅に見誤った「組織の中だけでのリアル」に変化してしまったのだろう。ファンはストーリーに乗っかってるからそのおかしさに気づかない。メンバーも気づかない。運営すら気づいてないのかもしれない。結果、周辺から見たら歪でしかない仕組みになっている。これはアイドル全体に言えるしAKBに限った事ではないが。


海外でもAKBの件が話題になっている。明らかに良くない意味で。倫理的な問題ってのは各国の文化的土壌によって差異はあったとしても、虐待的な取り扱われ方をしている部分もある。

AKB48のメンバーが「頭を丸坊主にして謝罪した」件(と柔道関連)、英語報道&それへの反応
http://matome.naver.jp/odai/2135973732388248301

海外の意見をそのままに受け取るつもりもないし、基本ゴシップ好きの人が盛り上がってる(そして引いてる)のだろうが、「理解できない」という反応が多い。そしてここでいう理解できないものとは、組織としてのAKBのことだ。


本来ブラックボックスで、周囲からその異常さを指摘されることは少ないはずだった。ただ今回に関しては運営が「youtubeで公開したこと」が図らずも異常性を明るみにする結果になった。ファン及びメンバーの倫理観のズレが明るみに出る結果になった。

インターネットの存在、SNSなどのソーシャルの存在は、組織統制にとっては大きな邪魔ものになり得る。統制の利かない個人的発信が既存コミュニティを壊す契機になる。これはいい意味でも悪い意味でもだ。「既存の社会とWEBを中心とした個人発信主義」の相性は最悪だ。おそらく当分は既存コミュニティ社会とWEBとの軋轢は止まらないのだろう。そしていろんなズレや違和感があちらこちらに散乱する。その先にどのような人間関係やコミュニティが存在するのか、それは壊れていくコミュニティを見つめながら新たに組み立てなければならない。
親学に見られるような回顧主義も、ゆとり教育的な過剰平等主義も、モンスターペアレントのような超個人主義も、過渡期の産物なのかもしれない。組織がリアルとフェイクで踊り続けようとするのをWEBの対全世界、対個人への発信がぶち壊していく。壊れた世の中も、また現実。そしてその世界を見つめながら、やはり生身の人間は現実に振り回される。そこだけは変わらないのだ。