人は常に何かが足りないと思って生きている

さて。何が足りないと言って更新が足りてないブログを更新します。

もう40にもなると、人生経験の中に「人の死」というのが何回か登場したりニアミスしたりするわけです。天寿を全うする人、若くしてこの世を去らざるを得なかった人々、そして自ら死を選ぶ人もいました。
その中でも「自ら死を選ぶ人」が、残された我々に残してくメッセージというのはなかなかに強烈です。その「死」自体が現在生きている我々の世界の常識や概念を揺るがすだけの力を持っている。「俺は死ぬほど苦しかったし死んだ方がいいと思ったんだけど、お前はどう?」って言われてるようで。心の平安や平衡を失ってしまい最終的に破たんしてしまった彼らの本当の気持ちは、実の知り合いや友人で会った自分でも、今となっては正直わかりません。


人はみんな多かれ少なかれ心の平衡を失う時があるのだと思います。大事な人がいなくなったり、自分の居場所がなくなったと思ったり、この年になってくると自分自身の変容や変質(まあそれを老いと呼ぶのかもしれないのですが)も原因として出てくるのでしょう。でも突き詰めて考えていくと「喪失感」こそが心の平衡を崩す一番の要因なのではと思うのです。

この喪失感というのはいろんな側面で出てきます。社会生活を過ごしていればさらに顕著に現れます。若年期であれば「自分は強いと思っていたが近所のガキ大将に負けて自分は強くないことが分かった」とか「自分は美人だと思っていたけどそうではなかった」とか。さらに年をとればとっただけ問題は出てきます。「自分はこうだと思ってたけど、実際は違った」「自分がこうだと信じてたものはそもそもなかった」なんて話は山ほどあるわけです。

では人は喪失感をどうやって乗り越えるのか。これは正直な話だましだましやってくしかないというのが正直なところです。どんなに望んでも手に入れられないものはあります。その大小さまざまなギャップに人は悩み続けます。結局の話人は常に「脳で認識している自分」と「実像の自分」のギャップに悩み続けます。誰もがそのギャップや「自分自身が足りないと感じている」喪失感と常に隣り合わせです。そしてその喪失感をずっと受忍していくと、自分の世界が破たんするということなのだろうなと自分は思います。


自分も当然そういう感情はありますし、自分はその喪失感や足りないものから生まれる感情を音楽で補完してる部分があるのです。怒りや悲しみ、寂寥感であったり猥雑さ、煌びやかさや夢、いろんな足りないものや足りない感情を音楽に依存して生活しています。


この足りないものへの埋め方も人それぞれです。足りないものを埋めるために人を足蹴にする人もいれば、人を悪しざまに言う人や他人に当たる人もいる。社会に依存してみたり、自分の子供に依存してみたりとかもある。

結局みんな足りないものは様々で、それを理解しようと思っても理解はできないし、自分自身もそういう表象に見える世界を見ながら「納得いかねえなあ」とか思った後にその「納得いかねえなあ」を解消してくれるような音楽を聞いたりして日々を過ごすわけで。きっとこのまま何もわからぬまま人生も終わるのでしょうけど、わからないまま生きるという喪失感を解消するためにグダグダ今日も考え続けるのです。