秋元康とつんくの違いと、次世代プロデューサーの在り方

先のエントリーの追記みたいなもんです。「さっきのエントリーの最後にあった演出家って秋元康みたいな人のことだよね!」っていう声が聞こえたので、反論というかなんというか。
私的には秋元康って人はすごい人だとは思ってます。まず、やり方を選ばない。AKBをビジネスにする上で、規模的なものスケール的なものの発想がけた違い。たぶん「どうせ失敗してもうまく逃げられるもんね!」っていう余裕から出てくるものだな。で、また仕事量が多い。割と先回りしていろいろ策を練っている。でも、秋元康のビジョンの中には「文化」と「生活」はスポッと抜けおちている。だからこそできるものもあるのだろうが、個人的にはダメなんだよな。秋元康の勝因は、今も昔も「情で商売をするジャンルで一人だけ情と関係なく仕事が出来る」というポジションワークだ。
で、つんく。そういった意味では真逆。日本の音楽文化のいいところと悪いところを両方体現している気はする。日本のバンド文化って「内輪ウケ」みたいな文化があって、それを良しとしながらここまで来ていた。ライブハウスというスモールサークルで「わかる人だけ分かればいい」みたいな。そのまますくすくと成長するとシャ乱Qというか、つんくになる。でも訳のわからん人間にぐちゃぐちゃ余計な事を言われながら方向転換をさせられるくらいなら、自分の周辺で好きにやってた方が楽しくできる。それもわからんでもない。音楽を作る上で「皆で音楽を作る」という手法がほぼ確実に失敗するように、生み出す人間は少なければ少ないほどいい。ぶれないから。ただふとした瞬間に判断を誤った際、誰も軌道修正を図れない。スモールサークルでワイワイやってきたので客観性がない。このまま裸の王様になってしまうと、抜けだせなくなることすらある。


で、掲題の「次世代プロデューサー」なんですが、まあ、ヤスタカとかヒャダインとかいますが、個人的には作曲作詞をする人間がプロデュースをすると、今後は表現の幅を見失うと思う。WEBを通したプロモーションも対マスなのか、個人なのか(昔マス対コアって曲あったけど、あれより時代は進んじゃったなあ。だってもう今の「コア」って完全に個人だしね)。雑誌にしてもテレビにしても、かつてのような大枠で括ったF1層とかB層とかの言葉は役に立たない。
今後は、その音楽が、それぞれの受け手の生活のどこに位置するかって言うのが重要になる。受け手の生活に頭っから飛び込んで潜水できるような人間じゃないと想像できないような、霧の中を探るような世界。でも今後のプロデュースワークは、接触みたいな安易なものではなく、皆の心に刺さってくものでないといけない。マルコム・マクラレンだったらどうするかね。広告もメディアもテレビも制作も現場も全部フラットな状態で戦術を考えられるプロデューサー(チーム)。それが理想。そういう意味ではヤスタカチームが一歩リード。あのチームに村上隆が入ったらどうなりますかね。


いやさ、ハイプをねつ造して短い時間で金を稼ぐだけ稼いでアディオスみたいなやり方は無くならないし、多分今後もそういうのはあるんだろうけどさ、いいものは長く楽しみたいじゃない?