人間の声の持つ「空気感」と機械仕掛けの歌声と

さて。この記事本当に素晴らしい。

2012年のロボ声論〜The Man Machine / Ghost In The Shell
http://blog.livedoor.jp/summerbreeze1/archives/5991027.html

ボコーダー、オートチューンに代表される「人間の声を変容させる」ロボ声とボーカロイドに代表される「人間の声を目指す」ロボ声。この二つの歴史をひも解きながら、最終的にはチョップ&スクリューまでもを引き合いに出しながら変容された声による空気感と時間軸の歪みにまで触れる。面白い。


人間の声というのは不思議なもので、一つフィルターを通しただけでまるで違うものへと変化する。直接会っていれば声のトーンでわかる感情も、電話口だとまるで違うものに変わるような。人間の声は音程の揺らぎやブレスなどそのすべてが生々しい。あまりに生々しすぎて、その人間の背景まで透けて見えてしまうほどに。どのような生活をしてきたか、どんな人間なのかまでもが透けて見えてくるような瞬間がある。
表現方法として「人間以外のものを表現する」もしくは「浮世離れさせる」時、声を変えるというのは非常に効果的に空気を変容させる。

これはフォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」。テープ早回しという原始的な手法でありながら、「一度死んでしまった男の能天気な天国散歩」を表現するには非常に効果的だ。ちなみに早回し前の声にするとこうなる。

言葉に意味が出過ぎてしまう。「オラは死んじまっただ」という言葉に余計な重みが出る。


トークボックス(トーキング・モジュレーター)も同様に声を変容させるものではあるが、「発した声を変容させる」のと「変容させるために声を使う」という所で明確な違いがある。トークボックスは「音を口内に流し込んで口腔でコントロールする事で変容させた音をボーカルマイクで拾う」原理だ。時々「G-FUNKで使ってるのってボコーダーだよね?」って言う質問があるが、あれはトークボックスです。トークボックスじゃないと、空気感が出ないんです。トークボックスは結果的に「歌う」行為をしないと音が発生しない。声が変容していても声のグルーヴ感は失われない。
この微妙な差は非常に大きい。想像していただきたいのだが、「素敵な女性とメロウな時間を過ごす」時、そこに肉体的なグルーヴ感は必要だ。ただ、やはりそういう空間では多少一般的な理性とはおさらばしたいものだ。浮世を離れて、メロウに浸りたいのだ。「空間は変えたい」「だけど人間味は失わせたくない」この二つを兼ね備えた楽器がトークボックスだ。まあRogerでも貼っときますか。あとDJ QUIK


ヴォコーダーも似たようなもんでしょ?」という人は多い。申し訳ないがまるで違う。ヴォコーダーは「人間の声を使って演奏する楽器」だ。声自体を変容させて楽器で演奏するため、声のグルーブ感は失われ楽器のグル―ヴ感に変化する。クラフトワークは「人間解体」の表現をヴォコーダーに求めた。非常に理念的に正しい。これがトークボックスだったらと思うとぞっとする。ただ、ヴォコーダーで歌うという表現は、その後のダンスミュージックと声の歴史において、一つの変化のきっかけがあったように思う。
ヴォコーダーの声は決してソウルフルではなかった。少なくともこの時代では。「この声がソウルフルに聞こえてくる時代が来るよ」なんて言ったら笑われるような時代だった。


ただ、ヒップホップやエレクトロのような音楽でチョップ&エディットが一般的になるにつれ、聴き手側の耳も変わってきた。またハウスやテクノのようなダンスミュージックはその曲の中に人間性を必要としなかった。自然と音楽の中の「人間解体」が進んでいく。ぶつ切りにされた声に込められたエモーションは、人間の全体像をぼやかしたけど一部を切り取り増幅させることには成功した。ヒップホップにおいてはJBの曲は幾度となく解体され、JBの1ショットボイスは何度もその曲の中でループした。JBの曲は聞いたことが無くてもJBの声を聞いたことがある人間は大量にいる。そういう時代になった。
そして90年代に入る。オートチューンの登場。理論的には「波形編集」のソフトであるオートチューンは「声で遊ぶ」ことに対して非常に効果を発揮した。しかしここで特に印象深いトピックは「グル―ヴ感とタイム感の変容」だ。オートチューンはあくまでDSPの一つで、ソフト上で音声を修正していく。必然的にリズム感やクオンタイズはグリッドになっていく。エフェクト等もアナログなランダム感は失われ、グリッドに変化していく。オートチューンは声から「ミス」や「揺らぎ」を引き剥がすソフトだ。ここで、ボーカリストの最後の砦だった「感情(的な歌い方)」すらもコントロールする時代が到来した。T-PAINの手法は個人的には好きではないが、アタックの強いヒップホップに楽器的な手法でオートチューンのボーカルが乗っていくというスタイルは、ヒップホップにおいてはちょっとした発見だった。ビートとメロディーとボーカルのブレンドという点でボーカルが楽器と一体化した。裏を返せば「ボーカリストの死」という見方もできるが。ヴォコーダーは「声を用いた楽器」に近い存在だったが、オートチューンはサウンドに声を溶け込ませることに成功した。


いつからオートチューンやボコーダーの声が違和感なく聞こえるようになったんだろう? まあ、今となってしまっては切符販売機も自販機もPCもなんでもしゃべる時代だ。ふと気付くと生声を聞かずに終わる日だってあったりするくらいだ。ひょっとしたら、知らぬ間にスピーカーから出てくる声の方が多く聞いているのかもしれない。そのうちのどれだけが生身の声なんだろう。その声にはIDがない。どこにもいない人間から我々は問いかけられる時代になった。「生声だから素晴らしい」とかそういうことを言いたいのではない。オートチューンの声は、現状においてリアルなものになりつつある。矛盾している言い方かもしれないが、それが今なんだと思う。ロボットボイスのアンドロイドがリアルの世界とネットのようなバーチャルの世界を行き来する時代に、耳になじむ「リアルさ」は「人間」だけのものではない。今いるストリートには「人間ではない存在」と「人間」が混在しているのだ。もはやリアルを語る主戦場はWEBに移行しつつある。「人間様のいる世界」と「人間と人間ではないものが混在する世界」の両方がある。どちらも表裏一体だ。虚実入り乱れる世界。オートチューンが歌う声には「生活」が一切感じられないが「リアル」はあるのだ。