女性誌の付録と毒を抜かれていく「小悪魔ageha」について

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女性誌が次々と付録をつけるようになり、逆に「雑誌の方が付録」になりつつある雑誌業界。元編集長の中條氏の強烈な意志で付録を拒み続けていた小悪魔ageha。内部の体制変更でagehaから中條氏が撤退する事になり、早速次号からは付録が付く。それに対しての考察。おもしろい。


圧倒的なこだわりと意志でコンセプトを貫いてきた中條前編集長。商売気が入ることを嫌い続けていた。不純物だと思ってたんだろう。広告だって無しで作れれば無しで作りたいと思ってたはず。付録商売は広告との連携が不可欠だ。編集長のコンセプトとは真逆の部分だったんだろうな。
広告クライアントの意思に沿って記事を作れば、当然雑誌のコンセプト自体を緩めざるを得ない。自分が本当に伝えたかった相手に伝わらない雑誌が出来てしまう。それとビジネスを天秤にかけて「どの部分をあきらめるのか」が重要なところ。広告代理店の目的はターゲット層に自分の担当広告の商品を確実に買ってもらえるような仕組みを作ること。その仕組みの一部に入ってしまうと簡単には抜けられない。
雑誌というか書籍を作るという仕事は自分が作家ではないにせよ「ひとつの作品を作る」作業に近い。意志を通していかないと全体像がぶれる。同じものを取り上げるにしてもちょっと触れるだけにとどめるのと、大きく枠を組んで扱うのとは大きく見え方も意味合いも異なってくる。
ビジネスとの兼ね合いであっても絶対に守るべき部分はある。また飲んではいけない毒がある。飲み続けなければ生きていけない体になる毒がある。一度口にしたら最後、身をすり減らして自ら崩壊する。まさにシャブ。


小悪魔agehaは雑誌としてはどんどんマスに近づいていく半面、小悪魔agehaらしい部分を失っていくのかもしれない。ただ、それより恐ろしいのはコンセプトを見失うことにより客層が離れ、それを補うために付録をつけるという負の循環に足を踏み入れていること。確かに付録見れば「お得かも」って思うかも知れないさ。でも、それって雑誌の役目なんだろうか。デアゴスティーニとかに任せとけばいいんじゃないか。最終的に付録の良し悪ししか見るべきもののない無味乾燥な雑誌になってしまうんだろうか。
小悪魔ageha」という価値観を失い、安いブランド付録の良し悪ししか見ることのできない読者層を生むことに罪悪感ってないんだろうか。ないんだろうな。


※ああ、この話、まるっきり握手の話と一緒の図式だ。。。