パッケージ販売を捨ててでも見つけるべき音楽業界の未来

さて。今日はこの記事から。

音楽ストリーミングSpotifyがコカコーラとグローバルでの戦略的提携を発表, プラットフォームや音楽アプリでマーケティング活動を促進
http://jaykogami.posterous.com/spotify-87908

うん、面白そうな気がする。
Spotifyはまだ日本でサービスをやってなくって、すごく乱暴に言えば「itunesのプレイリストのスマホ連携などが超簡単」「facebookと連携が簡単なので、SNS連携が良い」って感じのストリーミング型聞き放題サービス。個人的にストリーミング型聞き放題サービスが、音楽業界に金を回す決定版だとは思わないし、Spotifyから脱落していくアーティストも多い。ColdplayとかTom Waitsとか。

ミュージシャンから見た音楽サブスクリプション--疑問視されるサービスからの収益
http://japan.cnet.com/news/commentary/35010300/

正直、サブスクリプションサービスは対アーティストへのペイを薄めるだけのサービスだ。レーベル側に支払われた著作権料が正しくアーティストに分配される保証はどこにもないし、その著作権料の率自体もざる勘定でのもので実態に即してはいない。これはSpotifyでもgroovesharkでも今後出来るであろうiCloudだって変わらない。


だからと言って、「これらのサービスを取り締まるべき」って言うのは正直意味のない話だ。音楽配信の営業の人間なんかが昔はよく「いずれWEBが試聴機に」なんて営業トークをしてきたと思うが、おめでとうございます、本当の意味でWEBは試聴機になりました。しかも超高性能の。試聴機が素晴らしすぎてパッケージを忘れるほどに。


じゃあ、その試聴機の質を落とせばパッケージに人は帰ってくるのか?答えはNOだ。WEBがどうこう言われる前から、パッケージ販売はだいぶ変質してきた。かつて「Home Taping is killing music」なんてキャンペーンもありましたが、かつてアナログレコードの時には音楽は人と共有するものではなく所有するものだった。それがカセットテープという形での共有が進んだ。でもこれはあくまでも「私的利用」の枠組みの中だった。ただその後CD、MDといったメディアが誕生する。このメディアの最大の利点は音質どうこうではない。言葉通り「コンパクト」「ミニ」であること。CD/MD誕生と普及の中で、音楽業界は、音楽を人と共有する方向を選んだのだ。この共有が進むことによって音楽がどうなったか?音楽のリサイクルが進んだのだ。音楽業界は再発という名前の元に音楽のリサイクル販売を始めた。ただ、同時期にヒップホップは"searchin for the perfect beat"の理念の元、あらゆる音楽の倉庫をひっくり返す作業を行っていた。音楽のリユースは世界規模で凄まじい勢いで進み、リユースの対象になった音楽は、ファンク・ソウルの鉱脈にとどまらなかった。結果的に過去鉱脈も掘り尽くしていない場所はないんじゃないか位のところまで来ている。
そもそもWEBが登場したから音楽の共有が進んだのではない。まずそこははっきりさせておこう。


パッケージ販売がうまくいかなくなったのはそれまで積み重ねてきた「パッケージの価値の低減」のせいであり、WEBはそのスピードを速めただけだ。誰が悪いのではなく、20年近く下げ続けてきた価値がここにきて大きく痛手になっているだけだ。
じゃあ、今どうするべきなのか。


最初の記事に話は戻るけど、coca-colaがspotifyに期待しているのは広告メディアとしてのspotifyではない。

コカコーラのグローバルスポーツ・エンターテイメントマーケティング担当のEmmanuel Seugeは、「この提携は広告契約ではなく戦略的なパートナーシップです。我々は今後コンテンツ訴求を目指す活動に注力します。Spotifyはオリンピックやワールドカップ、キャンペーンなどの音楽の領域で我々のグローバルパートナーとなります。私たちにとって認知度を広げるのではなく対話の一部となることが重要なアジェンダです」と説明します。

「対話の一部」というのが重要なキャッチフレーズとなろう。コカコーラは音楽を通してspotifyのユーザーと直接対話マーケティングを図るつもりだ。
音楽は広告業界と今までとは多少違った付き合い方を図っていくべきだろう。今までの「出来上がったパッケージを広告宣伝する」やり方ははっきり言って意味がない。
maroon5のように「24時間でユーザーと曲を作る」のをコンテンツ化してWEBメディア化する(広告代理店からお金をとる)
・共有されたMIXTAPEをリアルの現場と連携させ、共有されたMIXTAPEの価値観を認知させる(現場からお金をとる)
daft punkみたいに音楽とリンクするようなブランド(グッズ?)を作り、その販売とリンクさせて制作コストを補う(物販でお金をとる)
上記のような手法に共通しているのは「音源で金をとらない」という発想の転換だ。「ただで配る」のではない。お金を得るポイントを変えるのだ。その音楽が他のジャンルの物やアクションとどのような連携が取れるか、そしてそこにどのようなマネタイズポイントを見いだせるか。そこがカギになる。
当然「既存のファンから搾れるだけ搾り取る」という方法もあるんだろうし、「特定の土地だけに異常にアピールする」ような方法もある。「音楽を作り販売する」というのはただCD作って流通に乗せることではない。少なくとも今はもうそういう時代ではない。


最後にもう一つ。「WEBと生活の一体化」が今後のキーワードになるはず。WEB経由で生活にまでリーチ出来る世界がもう目の前だ。もちろん、音楽もそうなる。そうなったときに今ここにある音楽がどのようなものでどのように伝わっていくものなのかって言うのは重要なキーワードになっていくはず。音楽業界の皆様はもう自分が「エンターテインメント業界」にいるなんて言う妄想から離れて、生活の中の音楽って言うのを考えてみたらいいんだと思います。


アーティストが作り上げてきた作品を、WEBやリアルのプラットフォーム上から一本のストーリーに仕立て上げられる演出家。それがいま求められている人だと思いますよ。

秋元康とつんくの違いと、次世代プロデューサーの在り方

先のエントリーの追記みたいなもんです。「さっきのエントリーの最後にあった演出家って秋元康みたいな人のことだよね!」っていう声が聞こえたので、反論というかなんというか。
私的には秋元康って人はすごい人だとは思ってます。まず、やり方を選ばない。AKBをビジネスにする上で、規模的なものスケール的なものの発想がけた違い。たぶん「どうせ失敗してもうまく逃げられるもんね!」っていう余裕から出てくるものだな。で、また仕事量が多い。割と先回りしていろいろ策を練っている。でも、秋元康のビジョンの中には「文化」と「生活」はスポッと抜けおちている。だからこそできるものもあるのだろうが、個人的にはダメなんだよな。秋元康の勝因は、今も昔も「情で商売をするジャンルで一人だけ情と関係なく仕事が出来る」というポジションワークだ。
で、つんく。そういった意味では真逆。日本の音楽文化のいいところと悪いところを両方体現している気はする。日本のバンド文化って「内輪ウケ」みたいな文化があって、それを良しとしながらここまで来ていた。ライブハウスというスモールサークルで「わかる人だけ分かればいい」みたいな。そのまますくすくと成長するとシャ乱Qというか、つんくになる。でも訳のわからん人間にぐちゃぐちゃ余計な事を言われながら方向転換をさせられるくらいなら、自分の周辺で好きにやってた方が楽しくできる。それもわからんでもない。音楽を作る上で「皆で音楽を作る」という手法がほぼ確実に失敗するように、生み出す人間は少なければ少ないほどいい。ぶれないから。ただふとした瞬間に判断を誤った際、誰も軌道修正を図れない。スモールサークルでワイワイやってきたので客観性がない。このまま裸の王様になってしまうと、抜けだせなくなることすらある。


で、掲題の「次世代プロデューサー」なんですが、まあ、ヤスタカとかヒャダインとかいますが、個人的には作曲作詞をする人間がプロデュースをすると、今後は表現の幅を見失うと思う。WEBを通したプロモーションも対マスなのか、個人なのか(昔マス対コアって曲あったけど、あれより時代は進んじゃったなあ。だってもう今の「コア」って完全に個人だしね)。雑誌にしてもテレビにしても、かつてのような大枠で括ったF1層とかB層とかの言葉は役に立たない。
今後は、その音楽が、それぞれの受け手の生活のどこに位置するかって言うのが重要になる。受け手の生活に頭っから飛び込んで潜水できるような人間じゃないと想像できないような、霧の中を探るような世界。でも今後のプロデュースワークは、接触みたいな安易なものではなく、皆の心に刺さってくものでないといけない。マルコム・マクラレンだったらどうするかね。広告もメディアもテレビも制作も現場も全部フラットな状態で戦術を考えられるプロデューサー(チーム)。それが理想。そういう意味ではヤスタカチームが一歩リード。あのチームに村上隆が入ったらどうなりますかね。


いやさ、ハイプをねつ造して短い時間で金を稼ぐだけ稼いでアディオスみたいなやり方は無くならないし、多分今後もそういうのはあるんだろうけどさ、いいものは長く楽しみたいじゃない?