DAFT PUNK「INTERSTELLA 5555」

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 タイトル中の5555とは「The 5tory of the 5ecret 5tar 5ystem」だそうな。昔のプリンスみたいな文字使いだな。まあそんなことはともかく、非常に面白かった。しかし面白かった部分が非常に漠然とした話になってしまうので、ここからいくつかの段落に分けて話をしたい。ものすごくネタバレなんで、今から見ようと思ってる人は読んじゃダメ。
 

 松本零二先生は十中八九、音楽の感覚が80年代で止まってる。いや、ちょっと違うな、70年代が「ちょっと前の音楽」80年代が「現在の音楽」という視点なんだろう。出てくるシークエンスや小物、エピソードが80年代臭いこと臭いこと。フレンチハウスとかそういうキーワードはやはり松本零二先生には無縁だった。最初に「ワン・モア・タイム」のPVを見て、その後のいくつかのPVを見たときは「ミスマッチを売りにしてるんだろうな…」なんて思ってた。
 しかし見ていくうちに、もう一つの大きなキーワードが明らかになってくる。それはライナーで本人たちも言ってたことだが(またこのアニメの脚本はダフト・パンク本人によるものだ)、「退廃したショービズ界への批判」だ。
 ダフト・パンクの曲を演奏する謎の宇宙人バンド「クレッシェンドールズ」は地球のショービズ界の大物、ダークウッドによって地球に拉致される。見た目を地球人に改造され、電極みたいなもので操られながら、地球で大人気アーティストとなる。オチを先にいってしまえば、彼らは開放され星に帰るのだが、このダークウッドの目的がなかなか凄い。彼はゴールドディスクを集めているのだ。ここでいうゴールドディスクとは、まさに、アルバム売上が多い人にもらえるあのゴールドディスク。彼はそれを大量に集め、そのパワーを集結させることによって世界を滅亡させようとしてるのだ(多分…)。彼はそのために、今まで数々の宇宙人を拉致し、地球でスターに仕立て上げる。あの急逝したブルース・ギタリストのような人も、あの不幸な死を迎えたソウル・シンガーみたいな人も、みんなダークウッドによって操られ、己の精神をすり減らした挙句倒れていったのだ。よく「あの」EMIがこんな脚本を許可したな…と思いたくなるような話だ。
 

 そしてクライマックスがまたいい。最後にクレッシェンドールズの国と地球がいっしょになって踊っている姿はなかなかぐっと来る。松本零二先生とダフト・パンクが音楽を媒体にシンクロしている姿はここのシーンに伺えるだろう。恐らく、ダフト・パンクが見ているのはレイヴであったりクラブ・カルチャー。松本先生はウッドストックやフラワームーブメントのそれではないだろうか。しかし、音楽を通じて世界中が踊って楽しんでる、そういう世界が実現したらどんなにすばらしいだろう…という無邪気なまでの姿が胸を打つ。生きてきた時代も見てきたものもやってることもぜんぜんシンクロしなかった二組が、一瞬でも同じ方向を見る瞬間。すばらしい。


 あと特筆しとかなければならないのは、このプロジェクトのプランの長さ。アルバムを出した、売れた、じゃ次のアルバムを作れ、作った…というサイクルではありえない気の長いプロジェクトであると同時に、2年後3年後を見越したプロジェクトをつくり、また実行したダフト・パンクには正直頭が下がる。アルバム「ディスカバリー」のジャケットから始まった話題を、PVという形で小出しにしながらも、最終的に一つの作品として成立させる…なかなかできることじゃない。凄いことだ。


 また、セリフの全くない、ほぼレコードに入っている音源のみで製作されているこのアニメはなかなかに想像力を要求する。もともと絵のために作られた曲ではないというのも想像力を必要とさせる一つの要因だ。ダフト・パンクの曲は基本的に単調だ。ループ一発な物も多い。しかし、このアニメで聴くと、また新鮮ではある。ダフト・パンクの曲にも想像力が要求されるし、アニメのほうにも想像力が要求される。

 この作品は「後世に残る大傑作」ではないとは思う。食い合わせの奇妙さは凄い。しかし、この時代にこれだけのことをやった、このプロジェクトを完遂させた、また過去にない異種格闘技の記録として、語り継がれることになるだろうし、語り継がれてほしい。「日本のアニメが世界に!」とかそんな近視眼的な視点で見たら、見えるものも見えてこない。この作品はダフト・パンククリエイティヴィティを炸裂させた「怪盤」だ。「意味がわからない」という人もいそうではあるが、なかなか細部にわたって示唆的だ。もう何回か見てみたら、また新たな発見があるかもしれない…なんて思わせるシロモノだった。