俺のオタク道とは

さて。年に数回しか更新しないブログの更新だよ。

今日はこれを読んでました。

アニメ見放題時代の、オタクおじさんの行く道 - シロクマの屑籠
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20180419/1524133119

わかる〜わかりみある〜みたいな感じです。調べてみたらシロクマ先生俺と同い年。そりゃ同世代の語る話だから肌に合わないはずがない。

どだい、三十代や四十代にもなって、十代や二十代と同じ感性・同じ態度でアニメやゲームに接しているほうが、中年のありかたとしてはどこかおかしい。いつまでも続く夏休みなんて存在しないのだ。

この辺でハートをグサグサされて

それよりは、精神的・肉体的な加齢にあわせて趣味生活を軌道修正していくほうが、人として無理が無いだろう。過ぎていくものを嘆くより、来るものを喜び、あるがままに生きたほうが人生はきっと生きやすくなる。それは、アニオタの道やゲーオタの道だって同じではないか。

この辺で「そうかもしれない…」と弱気になり

思春期に思春期らしいオタクライフを過ごすのは、もちろん素晴らしいことだ。そういう時期に出会ったアニメやゲームは魂の一部になる。でも、そういう時期が終わった後も人生は続くし、魂の特等席をなにがしかの作品が占拠してしまった後も趣味生活は続く。私はそういうのを投げ捨ててしまうのでなく、ぎりぎりまで楽しんでいきたいと思う、たとえそれが、後退戦のような趣味生活になったとしても。

この辺で完全に意気消沈しながら「そうか…そうなのかな…」と最近嫁に「聴かないCDいつまで持ってるの?」と聴かれたことを思いだしながらユニオンの出張買取のページとか開いてみたりするわけです。


 思えば昔にもこんな話を先輩とした気がします。その時先輩は「いいか、若いうちは自分の好きなものを存分に楽しめよ。その中で自分が本当に好きなものを見つけて、社会人になって安定した収入を得たらそれを人生かけて追い求めるんだ。それがマニアの道なんだ。それがマニア人生なんだよ。」って俺に教えてくれました。俺もそれを目指していた時期もあった。しかし今の自分はどうでしょうか。完全にマニアになりそこね、蓄積もせず、フットワークの悪いオタクになっているのが現状です。

 でもですね、自分はまだこの生き方をやめられないしやめる気もないのです。私が音楽というか趣味を通して得たかったのは、結局のところ「衝撃」なのです。昔を懐かしむことや完成度の高い作品を愛でることではない。日々の生活や世情、さらには自分自身の老いすらも包括しながら、その上で自分自身の世界観を変えてしまうような何かを、掻き立てられる何かを未だに求めているのです。
 とどのつまり、私が目指しているのは言うなれば、刃牙の渋川剛気であり、剛の道をあきらめた郭海皇でもあるのです。あらゆるコンテンツや情報が座って手に入れられるこの時代に、朽ちていく己の体と知能で真正面から戦いを挑む道を見つけること。それが自分自身のオタク道なのだろうな、と最近は思います。嫁にこの話をしたらすごく嫌そうな顔をしてましたが、それもまた人生であり、戦いなのでしょう。

年間ベストと年間でベストだったもの

さて。
今年も2DCOLVICSさんのところで年間ベスト選ばせてもらいました。
ベストアルバムがこれで
http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52267670.html

ベストソングがこれ
http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52267669.html

見ての通りの内容ですが、一応コンセプトとしては「何度もリピートしたものでなおかつ未来志向だと思った物」です。

で、今回ベスト作るためにずーっと買ったもの聞きなおしてたんですが、最終的に出来たランキングと自分の年間の所感みたいなものがちょっと違ってきたんで、ここで言い訳みたいなエントリが始まるわけです。優しい目で見守ってください。

エモはどこに行くのか

ここ数年の日本語ラップは割と「エモい」がテーマだったような気もするわけです。海外ともシンクロするKOHHに代表されるアーティストの活躍だけでなく、バトルなんかでの感情のぶつけ合いもまた「エモい」のだと思うのです。海外の先端と日本独自のバトル文化は「エモい」でつながってるというか、感情的なものをどのように表現・解釈するかというのがここ数年の主流だった気もします。今年のランキングや活躍したアーティストたちや期待するアーティストたちを考える上で「エモいのあと」みたいなものは重要な部分なのだろうなあと思います。

女性アーティストがすごかった

今回ランキング一位に入れたのはAWICHなんですが、今年は女性がむちゃくちゃ凄かった。コージーさんも「2017年、CMBあったのとは別にMARIAも、NENE a.k.a Sophieeもあっこゴリラも、椿も、HITも、AWICHも、ちゃんみなも、Chelmicoもdaokoも泉まくらも春ねむりももつ酢飯もリリスクもライムベリーも出てたし、フィメール大躍進なのでは?」ってツイートしてたけど、まさにその通りというか。今年は女性の日本語ラップ的には重要な年だったと思います。何というか、みんな一歩踏み出したというか、あまり男性性と対峙をしなくてよくなったというか、オリジナルなものに一歩近づいたというか。個人的には象徴的なのはELLE TERESAなんですが。あっこゴリラがSpotifyのCMに抜擢されたり、DAOKOがBECKとやってたりとか、もう来年にはさらに景色変わってると思います。アイドルラップも「ラップ好きのアイドル」が出てきて、「ラップ好きのアイドルがラップをやる」が普通になったのが今年だった気がします。来年以降は「アイドルがラッパーになる」のでしょうし、それが普通になっていくのだと思います。

引きずられるようにエモくなった人たち

今年はヒップホップ警察というか、リスナーのエモさも高まっていたように思います。ツイッターではプロリスナー()が誕生し5chに単スレが出来たり、バトルの実況者に固定アンチが誕生したり、ヒップホップをきっちり語ろうという取組は最終的にゲンロンカフェにKダブ先生を降臨させるというなかなかの超展開もあったわけです。やっぱ今年すごかったですね。今年じゃないとあり得なかったと思う。ただこの手の案件が最終的に何かしらのコンセンサスを得るとこまで言ったわけではないというか、散発的な戦闘に留まってる感じも見受けられるので、来年はもっと次の展開が出てくると面白いですね。個人的にはヒップホップ語りをするユーチューバーが出てきたりしないかなと(自分では絶対やらない

ラップに韻は必要か

今年個人的に一番衝撃を受けたと言える作品はminchanbabyの「たぶん絶対」なんですよね。なんというか、割と自分も「韻律を無視して絶叫したりわめいたり泣いたりするのがエモいんだろ」みたいに思ってしまっていたところに「ラッパーとしてきっちりラップした上でエモい」というのを見せつけられたのがこれだったというか。キャラクター性、テーマ性、リリックの複雑さ、韻の気持ち良さ、言葉のハメかたなど、むちゃくちゃ高度というか「ヒップホップの気持ち良さ」みたいなものを思いださせてくれた上で「似ているものが無い」という。そしてエモいという。冒頭の「ラップに韻は必要か」という問いがあるとすれば「その問い必要あります?」って返されるような作品がこれでした。

ニューカマーたちのフッド感とはどこにあるのか

個人的に今年面白い動きをしていたのは元々ニコラップとかのフィールドにいた野崎りこんや釈迦坊主+コカツテスタロッサ(CPCPC)などの面々やharuru犬lovedog天使やsleet mage、そこにシンクロしていくGokou kuyt、AWAZARUKAS、YUNGYU、RICK NOVAやTaeyoung Boyとかの面々で、来年がむちゃくちゃ楽しみなのもそのへんです。あと技術という意味ではitaqや嘯とかのラップスキルがこの先どうなっていくのかとか。この辺のメンツには「フッド感」があまり無いんです。でもこの先の時代、フッド感ってのは割と誰もが持ち得るものではないのかもしれない。インターネットの時代でのフッド感ってのは多分「土着」ではないのかもしれない、新たなフッドというのは地歴を必要としないのかもしれない、なんてことを思います。土着系フッドの最強チームとも言えるBAD HOPがいる今だからこそ、このあたりの活動も面白い。

来年はどうなるという話をする前にMC松島の話を

来年の話をする前に、MC松島の話を先に。最後の月だけ間に合わなかったものの毎月有料作品を出すというスタンス、「She's a Hero」の「オリンピック終わって一週間以内にリリースをする」というむちゃくちゃなスピード感、その他キャップやTシャツ、無料作品なども含めて、今年だけでMC松島は50近い商品を世に送ったわけです。これってとんでもないことで、ヒップホップの新たなハスリングスタイルを日本で展開していたのは彼だったと思うんです。音源出して終わり、CD出して終わりではなく、その音源やアーティストの独自性を高めるために音楽だけではなくどんな商品が考えられるのか。それをインディペンデントでやりきってたのがMC松島だったわけです。来年はマーチャンダイズの年だと思います。音楽は音楽として当然あるのですが、どれだけその世界観を加味したマーチャンダイズが加えられるのか。ただの派生グッズの展開ではなく、ブランド価値を高めるマーチャンダイズみたいなのってどんなんだろみたいな。そんなことを思ったりしました。

ではまた来年。

シンクとケガレと

さて。こんなまとめがあってですね。

友人が皿洗い用スポンジでシンクをゴシゴシし始めてドン引き→「ありえない」派と「ふつうでしょ」派に意見まっぷたつ。
https://togetter.com/li/1127633

なるほどなあと思って読んでたわけです。ちなみに自分は「洗ってあればどっちでもいいんじゃないの」派です。

ただ、ちょっと考える部分もあったんですね。

今うちではベランダでリクガメ飼ってるんですね。こいつはホントかわいいんですけど、時々自分の糞にまみれてベランダで寝てたりするんです。なのでリクガメ用にリクガメの体を洗うスポンジを用意してあるんですね。で、そのスポンジでシンク洗ってたら嫁にむちゃくちゃ怒られたわけです。
私個人としては「洗ってあればどっちでもいいんじゃないの」派でありながら「塩素消毒とかしてれば全然きれいなんじゃねえの」派でもあるので、その話をしたわけです。そしたら、
「そういう問題じゃないでしょ!」
と怒られたわけです。そしてその後自分も思いましたね。
「そうだな、確かにそういう問題ではないな」
って。さすがに衛生的に問題がないとはいえ、どう考えても共感を得られる話ではない。

なぜ塩素消毒まですれば衛生的だと頭ではわかっていながらも、リクガメの糞のついたスポンジで食器を洗えないのか。それはやはり「穢れてしまったもの」とそうでないものの違いなのだと思います。これは不可逆的なものなのです。

そしてさらにいえば「灰皿を洗うスポンジで食器を洗えるか」や「使用済みパンツと普段着を一緒に洗えるか」みたいな話も同様なのでしょう。これは科学的な問題ではなく、どちらかというとオカルトなどに近い話でもあるのかもしれません。

日本語HIPHOPがメインストリームになるのはもう諦めましたと思う前にちょっと俺の話も聞いてみてくれ

さて、昨日これ読んでからいろいろ考えちゃいましてね。

日本語HIPHOPがメインストリームになるのはもう諦めました
http://ese.hatenablog.com/entry/2017/01/25/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9EHIPHOP%E3%81%8C%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%82%E3%81%86%E8%AB%A6%E3%82%81%E3%81%BE

ほんとね、去年は間違いなくラップブームでしたよ。思った以上にキッズたちがラップの話題をしている。いやー「こんな時代を待ってたぜ」とようやく言える時代になったのですよ。
でも、これというヒット曲は出なかった、これも事実なのだと思います。

2016年売上枚数 - 日本語ラップ編 -
http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52236813.html

suchmosがデイリーで3万売ったなんて話を聞くとますます「ラップブームってなんだったんだ…」と嘆息したくなるような枚数。

でもね、ラップブームであったことは間違いないと思います。自分ダンジョンも高ラもぶっちゃけなめてました。もちろんそれの源流となるUMBも戦極からの歴史も含めて、これらのコンテンツが地方のラッパーたちに与えた影響や夢は計り知れないと思います。ここで蒔いた種は今だけでなく10年後ぐらいにも大きな影響が出てきてるはず。


さて、それでは本題の「日本語HIPHOPがメインストリームになること」なのですが、ちょっと前に自分高ラのリニューアルというか路線変更に関してこんなツイートしたんすね

ヒップホップ的な意匠を後ろに引っ込めてGreeeen的なJ-POPのラップやニコラップ的なものも巻き込んでのスタイルウォーズみたいになったら逆に面白いと言うか、世界中探してもそんな番組見たことないみたいなMCバトル番組になる気がするが、絶対そういうのじゃないと思うしな
https://twitter.com/komtarr/status/823371936205914112

で、引用でもリアルでも言われたのが「Greeeenってラップなの??」なんですよ。これに関しての自分の答えは「間違いなくラップだと思いますよ」なんですね。ヒップホップではないかもでしょうが。「あんな歌ってばっかいるのがラップ??」って話もありました。ネットラップの話をしてたときにもあった気がします。ネットラップ歌いすぎ問題。でもこれも「ギャングスタラップとかむちゃくちゃ歌ってるしいいんじゃない」って感じなんですね。あくまで私見ですが。


以前にカラオケ屋にいたことがありまして、そのときに感じてたことではあるんですが「ケツメイシGreeeenをラップだと思う」層って結構たくさんいるんですね。好きか嫌いかの問題ではないですよ。そしてこれは個人的に思ったのですが「吉幾三はラップ」と言う勢力とこの辺の親和性は高い。そして多かれ少なかれそういう層は「ヒップホップは悪いやつは大体友達の音楽」だと思ってるんですね。


元記事でこのように書かれてましたが

かくして、「ラップは嫌いではないけど純HIPHOPは好きではない」という一般層の壁を越えられていない、というのが現状なのではないかと思うのです。
昨日今日ではなくしばらく前からラップが一般的になっているのにヒット曲が出ないというのは、世間の「認知」の問題ではなく「好み」の問題なのでは。

ここは実に同感です。というか自分も含めてかもですが、やはり「ヒップホップのイメージがジブラで止まっている」のが最大の問題なのだと思います。日本語ヒップホップは「悪いやつらは大体友達」と言ったスターと「本当に悪いやつらが大体友達だったフッドスター」によってパブリックイメージが出来上がったと思います。それに対する対抗軸やアンチはあったとしても、ここが本線だったのだろうと。しかしそのイメージはもう過去のもので、今ではLDHがその地位にいる。日本語ヒップホップのパブリックイメージはいつまでたっても変わっていかない、これはもはや音楽の問題以上に「ラッパー像が変わっていない」という問題に尽きるのだと思います。


ただいきなりスターが飛び出て来てすべてを塗り替えていくと言うのもなかなか宝くじな話だと思います。SKY-HI先生はそこを明言してチャレンジしてるのはむちゃくちゃ凄い。尊敬します。ただそういう一発逆転ってあんのかな…って思うと不安になってしまう。そういう意味で今むちゃくちゃ期待してるのがANARCHYなんですね。なんだかんだ言ってLDHで新たなフッドスター像を作ろうとしてるし着実に作品も出していってる。その中で孤軍奮闘するANARCHY。ANARCHYだからできるんだよなあ、と最近は思うようになってます。


個人的には今の日本の「ラップ」はむちゃくちゃ面白いと思っています。海外とカルチャーが違うからこその進化なんだと思うんですが、昔から日本語ラップにあるリリカル信仰によって生まれるむちゃくちゃな叙情性、もはやパズルに近い韻踏みに対するこだわり、さらにそれを当意即妙に反応するというリアルタイム性。日本においてのテクニカルなラップというのはどちらかと言うと「言ってる内容」に属することが大きい。スキルとは「うまいこと言う能力」だと思われている。それだからこそラップ言語の幅は広がり続けている。これはヒップホップ的な進化とは別ベクトルの進化であり、いわゆる海外のメインストリームとはどんどん離れていく話なんだと思っています。


本来ヒップホップ=ラップではないですが、ヒップホップ≧ラップぐらいの位置関係にはあったと思います。ただ日本ではヒップホップとラップは別ベクトルの進化をした。だから「日本のヒップホップで全然ヒット曲が出ない」のは「昔の日本のヒップホップのパブリックイメージが強すぎる」からであって「ラッパー像がアップデートされていない」のに尽きるのだと思います。昔DE LA SOULが出てきたときに「あんなナードのやつらが」みたいな言い方をされてましたし、トライブもベトナムのわらの帽子みたいなの被ってて「アレはヒップホップなのか」みたいな話もありました。ヒップホップはアップデートしていく音楽です。で、実はもうアップデートはバンバンされていっている。それはヒップホップの現場であったり現場でなかったり。


「日本語ヒップホップは近いうちにメインストリームになる」と自分は思っていますが、それが昔からあるヒップホップの系譜にあるものかどうかは正直わからないなと思います。個人的にはまったく別のものであっても面白い。というかたぶんそうなる、周辺の状況は全部そうなってきてる、あとは時間の問題だと思ってます。

年間ベストに書けなかったいろいろな2016年

さて。2017年に入っていきなり結婚するという最高のスタートを切ったわけですが、今更2016年を振り返ってみようと思うのです。

日本のヒップホップに関しての年間ベストは今年も2DColvicsさんに提出しました。今年は悩んだ。最後の最後まで悩んだ。悩んで納得できたかというと全然だったりもするくらい色々あったと思います。豊作でした。

2016 BEST SONGs In 日本語ラップ (Selected by 靴底)
http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52253392.html
2016 BEST ALBUMs In 日本語ラップ (Selected by 靴底)
http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52253394.html

さて、それとは別に、年間ベストやベストソングとかに入ってこない事象とかから音楽とかを考えてみると、やはり2016年は色々あったなと。まずは驚くぐらいレジェンドや重要ミュージシャンが死んだ。現役感バリバリの人がたくさんいなくなったような年だった。「天国でのフェスのブッキング力が強すぎて地上に影響が出すぎている」みたいなツイート見たけどホントそうだよなみたいな。

In Memoriam 2016
http://www.npr.org/2016/12/19/505570682/in-memoriam-2016

そして解散を発表したエアロスミスSMAPなども含めると、豊作ではありながらも強烈なロスト感もある一年だったなあと思ったりします。


まあ暗い話はすればするほど幸せが逃げていくので、個人的におもしろかったあたりと考えたあたりを思い出してみると大きな話だと「現行アフリカ音楽はアンダーグラウンドもメジャーもむちゃくちゃ面白い、南アフリカを起点とするラインと北アメリカを起点とするラインでほじっていくとむっちゃおもしろい」「ちょっと前までむちゃくちゃ面白かった南米はちょっと落ち着いてきてる気がするけど、ジャズやロックのテクニカル系の人はすげえことになってる人も多くてやっぱ見逃せない」「ロシア〜東欧あたりのポップスとアジアのポップスにK-POPの影響とアニメの影響が出てきているような感じがあり、意外に共通感があるのではみたいな気がするし、K-POPの影響下に出てくる新しいポップスは韓国からではなく他の国から生まれてくるのかもしれない」「アメリカ音楽のマリファナ音楽化」「TRAPの肉体解釈はどうやらアジアとアメリカではまるで違うっぽい、特にleanの感覚」「日本を除くアジア音楽が世界中を飛びまわってる感」「日本という意匠の圧倒的な強さ」みたいな感じでした。


国内に目を向けると「なんかいろいろうまくつながっていってない感」「断絶と言えるほどのものではないんだけど、ネットとリアル、東京と地方、若者と老人などあらゆる場所で壁を作って対立構造を作ってる勢力がいるのではないかという疑問を持っていたがどうやらそれは自然発生的に起こってくる問題らしいぞみたいな」「人間関係の複雑さから生まれる圧倒的な遅れと損失と」「アイドルカルチャーが人間関係ビジネスと化してきた」「生まれてきている音楽はむちゃくちゃ面白いし新しいものはむちゃくちゃ生まれていってる」みたいな感じでした。


個人的には「ウィキペディア的な『表層的な定義論』にこだわることよりも、本質はなんなのかみたいなことを考えるのが重要なのでは」というのが2016年を通して思った一番重要なことかもしれません。まあこれは音楽に限った話ではないんですが。この考え方というか思考実験は色々気づくこと多いんでおすすめです。


個人的には昨年で音楽界では「北極星を失った」年になるんではないかなあと思ったりしてます。大きなビジネス、偉大過ぎるアーティスト、圧倒的なスター。それらを失った、もしくはそこまでの力を持たなくなったということなのかもしれない。でもそれを悲しむよりも先に、新たな世界への道が開けたことを喜ぶべきなのでしょう。世界は広い、そして我々は世界のどこにでもアクセスが出来る。誰にでも平等に道は開けている。もう誰かのストーリーに乗っかっていく時代ではない。そういうことなのかもしれません。


楽しい時代に生きているものだなあ、と最近は思っています。

人は常に何かが足りないと思って生きている

さて。何が足りないと言って更新が足りてないブログを更新します。

もう40にもなると、人生経験の中に「人の死」というのが何回か登場したりニアミスしたりするわけです。天寿を全うする人、若くしてこの世を去らざるを得なかった人々、そして自ら死を選ぶ人もいました。
その中でも「自ら死を選ぶ人」が、残された我々に残してくメッセージというのはなかなかに強烈です。その「死」自体が現在生きている我々の世界の常識や概念を揺るがすだけの力を持っている。「俺は死ぬほど苦しかったし死んだ方がいいと思ったんだけど、お前はどう?」って言われてるようで。心の平安や平衡を失ってしまい最終的に破たんしてしまった彼らの本当の気持ちは、実の知り合いや友人で会った自分でも、今となっては正直わかりません。


人はみんな多かれ少なかれ心の平衡を失う時があるのだと思います。大事な人がいなくなったり、自分の居場所がなくなったと思ったり、この年になってくると自分自身の変容や変質(まあそれを老いと呼ぶのかもしれないのですが)も原因として出てくるのでしょう。でも突き詰めて考えていくと「喪失感」こそが心の平衡を崩す一番の要因なのではと思うのです。

この喪失感というのはいろんな側面で出てきます。社会生活を過ごしていればさらに顕著に現れます。若年期であれば「自分は強いと思っていたが近所のガキ大将に負けて自分は強くないことが分かった」とか「自分は美人だと思っていたけどそうではなかった」とか。さらに年をとればとっただけ問題は出てきます。「自分はこうだと思ってたけど、実際は違った」「自分がこうだと信じてたものはそもそもなかった」なんて話は山ほどあるわけです。

では人は喪失感をどうやって乗り越えるのか。これは正直な話だましだましやってくしかないというのが正直なところです。どんなに望んでも手に入れられないものはあります。その大小さまざまなギャップに人は悩み続けます。結局の話人は常に「脳で認識している自分」と「実像の自分」のギャップに悩み続けます。誰もがそのギャップや「自分自身が足りないと感じている」喪失感と常に隣り合わせです。そしてその喪失感をずっと受忍していくと、自分の世界が破たんするということなのだろうなと自分は思います。


自分も当然そういう感情はありますし、自分はその喪失感や足りないものから生まれる感情を音楽で補完してる部分があるのです。怒りや悲しみ、寂寥感であったり猥雑さ、煌びやかさや夢、いろんな足りないものや足りない感情を音楽に依存して生活しています。


この足りないものへの埋め方も人それぞれです。足りないものを埋めるために人を足蹴にする人もいれば、人を悪しざまに言う人や他人に当たる人もいる。社会に依存してみたり、自分の子供に依存してみたりとかもある。

結局みんな足りないものは様々で、それを理解しようと思っても理解はできないし、自分自身もそういう表象に見える世界を見ながら「納得いかねえなあ」とか思った後にその「納得いかねえなあ」を解消してくれるような音楽を聞いたりして日々を過ごすわけで。きっとこのまま何もわからぬまま人生も終わるのでしょうけど、わからないまま生きるという喪失感を解消するためにグダグダ今日も考え続けるのです。

人はなぜ生きるのか

さて。すごいタイトルつけちゃいましたけど、タイトル通りの話です。
正直「今のところこう考えてる」ってだけで、現時点でのメモのようなエントリなんですいません。


先日ふとしたタイミングで「人はなぜ生きるの?なんのために生きてるの?」っていう重量級の質問をカジュアルに受け取る機会がありまして、これに対する答えを即用意する必要があったわけです。困ったら即googleに聞くチート系の私としましては当然「人 なぜ生きる」とかで検索してみたわけです。しかしまあ、なんというか、これという答えが見つからぬわけです。


トップに出てきたのはこれでした。

私達が求めるべきものは真実です。すなわち、「本当の自分を知ること」です。これ以外人生の目的はありません。
成功者とは、真実に少しでも近付けた人のことをいうのです。 
http://space.geocities.jp/gjdtk960/truth/002.html

どうなのでしょうか、真実。真実とは。真実を探しに最後まで読んだところで「ああ、キリスト教の勧誘だったのか」と気づきました。これは理解できるまで時間がかかりそうです。

次に出てきたのはこれでした。

どこにも明答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、“よくぞこの世に生まれたものぞ”の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
http://naze-book.com/chapter1/section01/

サイト名自体が「なぜ生きる 公式サイト」です。親鸞の教えだそうですが、これもやはり先と同じように「物事の根本を探ることで自分の存在意義を見出す」みたいなことなのでしょうか、わかる気はしますが、これも理解できるまで時間がかかりそうです。
Googleでもサジェストで「生きる 意味」とか「人 なぜ生きる」とか出てくるのに、やはりこれには明確な答えはまだ無いようです。


ちょっと話を戻しますが、この質問は2人からたまたま同時期にもらいました。一人は「動物や植物を犠牲にしてまで人間が生きる価値があるのか、自分は死ぬべきでは」という人でした。もう一人は不妊に悩み「生殖が出来ないということは人としての価値が無いのでは」と悩む人でした。どちらも大きな問題です。「真実」や「目的」が彼や彼女のためになるのだろうか、彼らの心を救えるのだろうか、と思いました。そこで「人はなぜ生きるのか」という話です。


人間とは弱い生き物です。寒くても死ぬし、暑くても死ぬ、ちょっととんがったものに触ればすぐ傷つき、その力は他の動物に遠く及ばない。実際の話、人間はこの環境の中で即滅んでもおかしくないだろうし、地球の盟主などと呼べるようなスペックの生き物ではないのです。
でも人間は生き残った。その生存戦略とは何だったのか。それは「弱いものを徹底的に守ることで各個体が支配できる領域を増やす」ことです。人間は弱い生き物ですが、その人間の中にもさらに弱い個体が存在します。その個体を徹底的に守ること。子どもや老人、障害のあるものないもの、あらゆる個体を少しでも多く生き残らせることによって、地球上で生存できる領域を増やすこと。それによって他の生物の生存領域を狭め、人間の生存領域を守ること。これこそが人間の持つ根本的な生存戦略です。人間は他の動物と戦わず、人間の生存領域を守ることのみで生きる道があるのだと考えます。


そういう意味で「人はなぜ生きるのか」の答えは「弱いものを守ることこそが人間の生きる意味であり、自分より弱い者がいるのであればそれを守ることこそが生存戦略であり、人の存在価値はそこにある」といえるのだと思います。


種としての弱さを認め、社会を築くことでしか生存できぬ意味を知り、その上で「種を守るための社会」としての一員としての意味を見出すこと。


言い換えれば「自分が守らねばならぬ人がいる限り、生きて守れ、それが人の道だ」ということなのでしょう。俺もがんばります。